昭和40年08月22日 朝の御理解



 あの人こそ男の中の男だと。そんな事を申しますよね。男の中の男だとというほどに、その本当の男って少ないもんだと。ね。いんや私はもう男で御座いますち。本当の男って言うのは、そうあるもんじゃない。証拠にそんな事を申します。あの人こそ男の中の男だと信心でもそう。金光様の信心を頂いておるから、全部が本当の信者と言う事ではない。いいやそれはもう、私はもう何様もかに様もない。
 もう金光様一点張りだと。と言うてもそれが本当の、金光様のご信者と言う事ではない。そこで私共が愈々目指させて頂かなければならない事は。本当にあの人こそ信者の中の信者だと言われるような、一つおかげを頂きたい。本当にあれこそ信者の中の信者だと言える人があるだろうか。その点私共は有り難い、ね、教祖の神様という所謂その金光様。二代、三代、そして四代様が身を持って御信心を私共に示しておって下さる。教祖の神様が仰るように。
 此の方の事を生神生神と言うけれども、此の方ばかりが生神ではない。皆もこの様なおかげが受けられると仰る。ね。皆もこの様なおかげが受けられると、生神というのは、只こう何て言うんですかね、千里眼的な霊能者と言った様な意味合いの者ではないと。いわば頂かれる、ね。そういう信心の手本というものを、示しておって下さる。一番近い所にそれを感じさせて頂いたのは、矢張り私共にとっては、三代金光様だったですね。本当に生神様としてのお徳を、お奨めを頂きになっておられる方は。
 ああ言う様な方であろうとこう思わせて頂いて、それでも矢張りあそこまでのまぁ、御人格というか御神徳というか、を頂きになるまでは。矢張り容易な事ではなかっただろう。そこで私共が思わせて頂くのは、いわいる金光様の信者の偽物と言う事になる。私達がね偽物なのだほんなもんじゃないんだ。けれどもそれがです本当なものを目指しておると言う事だけは本当である。と言う信心にならなければならないと、ね。どうでも真の信心を頂きたいと。ね。
 本気で真の人にならせて頂こうと、この願いだけはもたなきゃならない。その願いだけは本当願いは真実の、ところが願いをそこに置かない。ね。そげん神様にならんでんよか。もう良い加減。ね、ある人は信心も本当そりゃよかて、あまぁよかばってん程々にしとかにゃんて。まぁようそんな事を申します、信心しておってもそれを考えておる人があります。まぁやんぼうけじゃどんこんされん。朝も参る夜も参る。ね、信心も程々にしておかなければと。
 と言う様な事では、もう愈々私はつまらんと。折角信心させて頂くならです、折角信心させて頂くのであるから、本当の信心を分からせて頂こうという願い。これだけは本当だと言う様な信心を一つしたいと。本当に信者の中の信者。あの人こそと言われる様な信者になりたいという願いだけは持たなければいけない。ね、ごまかし半分この位でええこれでは何時までたっても、どうしよう本当の事にはなってこないと。ね、神様はです本当な事が分かりたい。
 本当な者になりたいと言うその願いです。その意欲です。それが真剣であればあるほど、神様も又真剣になって下さるんですよ。先日北海道から大きなその、小包を送って来た。何だろうかと思うて、開けて見ましたところが、あちらの、、一刀彫って言うんですかね、もう大きなアイヌ人形を二つ送って来ておる。今あの勿体島の和田さんが、今北海道の方に行っているんです。
 和田さんからのお供えでした。中に隅の方に小さい箱が入っているから、ちょっと開ければこれが、今までも見た事のない物が入っておった。私はそれをちょっとつまみ出したら、ふぁっとしたから、もうビックリして思わず手を放したんですけれども、それはあの北海道の「まりも」と言う物、これは天然記念物。世界にすいそ何とかと言う湖と、北海道の阿寒湖だけにしか無い、生息するいわいる生物なんです。
 そこのお手洗いの中に、私が入れております。丁度そのたまたまあの久留米、田村さんがお参りして見えてから、それをご覧になってはぁこれはもう珍しいと。もうどうしてこんなものが椛目に集まって来たでしょう。もう椛目ち言う所は面白いところですね、もう本当にもう、もう様々な珍しいものが集まって来る、と言うわけなんです。自分もそれ見てから実は私もあちらへ、日本ゴムへ勤めておられましたから、あちらにおった時に一遍、阿寒湖へ行ったと。
 そん時にこのまりももっと言うのを、あちらで見せてもろうて、珍しいもんだとほれでそのこっそりそのいわいる、その舟でこうこう観光するわけなんですね。そこでそのお水の中にこう皆こう浮いてる訳です。それで何かあのプロチェあんか、何かならの袋の中へ取ってから入れてですね、持って帰りよって見つけられてから、もう散々厳しゅう煮絞られたこつがある。ようもこんなものを、その送って来られたもんだと言うて、そのたまがっておられる。
 そして私じゃなかったけれども、そのまりもについて色々話をして下さったんですね。あれはあのもう一時しとるとですね、くりの様にパチッと弾いてから、中からまた小さいのが出て来ると。それでもうその子供が出来たら後は、親のその空だけあか、かつがつ死んで行くと言う事だそうです。ほいで私はお参りして来る人に、あれが北海道の天然記念物の「まりも」というのだてんで。
 んなら説明して見せよったんですよね。所がそれが偽者である事が分かったんです。ね。実際に見てきたりそれを、その取ってきた田村さんがです、まぁ太鼓判押されるように、これが北海道の「まるも」だと言われるもんですから、こっちもそうだと思い込んでおった。所が矢張りそれは、天然記念物ですから、送ったり商品にしたりそう言う事が出来るはずがない。ね、
 矢張りその植物生の、そおの同じような物でですね、いわゆるあのいわゆる作ってある訳なんです。それでももう昼あそこへちょっと、てらてらとこう日が照る、さし込む時なんかはもうそはもう見事なんです、真っ青な色してですこのくらいばっかりな、青い玉なんです。ちょいとご覧下さい。偽者でもやっぱりもう本物とそのまま、そっくり変らんように出来てるです。珍しいもんです。ね。
 いわゆる私は思うんですね。私達の場合なんかは、本当に本当な物のように、見えるけれども本当な者ではないと言う事です。ね、いいや私こそいいや内の先生だけはほんなもんだと言う事はないと言う事。ね、けれども矢張りです、本なもんのようにしておればですね、そのあの偽者のまりもがやっぱり、結構言うなら皆を楽しませてくれるようにです、やっぱり周囲の者は助かって行くんです。
 けどもその本人自身というのは、偽者である自覚と言う事。私なほんなもんじゃない、但し本当なものであるって言う事は、本当なものになりたい本当なものになりたい、と言うその願いそのものだけは、本当なものだと言う事。浄土真宗の(車の音で聞き取れない!)九十何歳で亡くなられたんですね、もう亡くなられる前に自分の踏んで来た人生というものを振り返って見てです。
 自分の頂いていた信心というものを、思うて見られてから、述懐しておられる言葉の中にですね、「この世の中の事は皆空事だ」と言うておられます。何十年間の自分が勉強もしてきた、自分に体得もして来たけれども、それは皆空事であったと言う。「真ある事無し」と言うておられます。という程にです真というものは、難しいのであると言う事。ねそれでいて真の追求を何十年間して見られての、親鸞上人様は今の世までも、やっぱり生き仏様として皆から仰がれておられる訳なのである。ね、
 教祖の神様はこれとはちょっと違うですね。天地の親神様からです、ね。この方金光大神のおかげで神が世に出たとこう仰る。ね、又は天地金乃神と同根という所まで、御神格を進めになっておられる。そういう完璧なもの完璧な真、完璧な真の人というそういう一つの手本と言うものがです。ですから皆もこの様なおかげが受けられると仰っておられるのである。ね。
 だからそこまでは私だんと言わずにです、矢張り目指す所は何時もそこでなからなければいけないという、本当なものを目指さなければいけない、その本当なものそれは一生偽物でおわるかもしれませんけれども、この本当なものを本気で追求し、本当なものをから本当なものへおかげを頂いて行く所の信心。その意欲が強ければ強い程、本当なものになりたいと言う願いが強ければ強いほどです。
 神様もまたその氏子の上にお働きかけ下さる思いは強うなって来る。その証拠には本当なものではない偽者の私にでも、本当なおかげを下さっていると言う事、おかげだけは本当なものであると言う事。ね。皆さん今日は一つぎりぎり自分という者を、反省して見てご覧なさい。成程もう椛目にご神縁を頂いてから十五年になる。十年になる。ね。人からは本当にまぁあの人の信心はと言われておる。
 言わば信者の中の信者と言われる様に立てられておるけれども、実際自分自身と言う者を振り振り返って見ると、もう自分こそ本当の偽者だと言う事の自覚。そこにです私は謙虚な信心が出来るのじゃないだろうかと。ね、愈々実意丁寧にならせて頂いて、愈々本当なものを求めて行く求め貫いて行く、いや本当なものから本当なものを追求して行くと言う事。ね、そのために本気で信心させてもらわにゃぁいけません。ね。昨日善導寺の、月次祭に親先生のお話の中にです、鳥栖の先生のお話があっておった。
 今教会長代理は女の先生なんです、元あちらの総代さんの娘さんになる。大体は産婆さんを志望しておられた。所がそのてんかんという病気がある。私共も善導寺に見えて一、二回その癲癇の起こりなさったつをを見た事がある。ひどい癲癇だった。所がです、ね、お父さんが総代をなさるくらいですから、非常に熱心な信心をしておられたのでしょうけれども、にも関わらずです。自動車でおい出られよってですね、どこにかそれでちょっとあの、つまずいて倒れられてそれで亡くなられた。
 金光様の信心信心しておられる人がです。しかも本当に自動車でひっくり返ったっちゃ、命あその死なん者は死なん所へです。自動車からひっくり返って落ちられてから、死なれた。どうした事だろうかと。とまぁ言うておったと言う事で御座いますけれども。神様の思いというものは、そんな浅かなもんじゃない。深かいもう私共では分からない、限りないその、神様の思いと言うものがあると言う事を、感じさせてもらいます。その後におかげにをによって。
 というのはそのお父さんが亡くなられて二十年になられるそうですがですね。もうその事からを境にです、癲癇がおこられないと言う事です。ね。最近なんかはもう中々、古い信者さん方がおりますもんですから、若い先生で女の先生ではありますし、もう矢張り何時もその、総代さん方と対立するんですね、ほんでも何時もその総代さん達に断わりばっかり言うとりますと言うて話されたようですが、もうその為にその信者との間に、様々なトラブルがあるわけなんです。
 その事が苦しいんですね。ですから一生懸命そのお父さんの御霊様に、お縋りをされるとですね、もうその都度都度おいさみを持って、そのご返事を下さると言う事なんです。御霊様がおかげを受けておられる。ね、天地の親神様の願いというのは、徳渕という先生を、に参拝すると言う事では御道の教師、やっぱりされたいという思いで、おありになったであろうと。
 お父さんに徳を積ませてから、お父さんにその病根を持って行かせるような働き、これは私共には分からんのだけれども、確かにそんなもの。信心とは目先目先の自分の思うようになったとか、ならなかったとかという、そんな小さいものじゃない。そこで素直に私共は教祖の神様の教えて下さっておる事を、信ずるより意外にない。ね。こちらへ足を一足でも向けてくりゃ、一足でも無駄にぁさせんと仰るのであるから、信心がこうやって出来ておるんだという。
 私は思い込みを持たせて頂かなければばならんと思うんですね。目先目先の事では分からない。いわいるその徳渕先生その難儀な、な信者さん方との問題をです、もうやっぱり人間ですから情けなくもありゃ、歯がゆうもあるんですね。一生懸命御霊様に御祈念をしておられた所がです、その御祈念中にうとうとその休まれたんでしょうね、お夢と言う、言う事ですから。
 神様からお知らせを頂いたというて話しておられたと言う事です。所がですその誰かがその人体の解剖をやっておる。その丁度頭の上の所をこのまぁ分解するですかね。そのこうして解剖しておる所を頂いとる。これが大脳だこれが小脳だという訳何ですね。誰かがそれを言うておるんですね。誰がっていうかある先生がですね。徳渕さんこのこの脳の中にはね。不可能ちゅうのがいっちょんなかろうがのち言うて言わっしゃったっち。ね、不可能と言う事はないと言う事。
 それからほっと目を覚められた。はあ自分が一生懸命あげん願うておると言う事がです、ね、これは不可能じゃぁないおかげが頂けられると信念された。脳ばいく沢山こうやって分解して、色んな脳があるけれども、この脳の中には不可能ちゅう脳はなかろうがの言う言う言葉を頂いて。これはおかげを頂くぞ、こちらが一心に縋ってさえ行きゃ、おかげ頂くぞと言うて、安心が出来たという話をしておられた、という話を聞いたんですけれども。確かにこの神様はそうです。
 不可能を言う事はない。ただお互いお願いしてさえ、さえおればおかげになると言うんじゃなくてです。いわば今日私がもうしております。まず私自身が偽者の自覚に立たせてもろうてそしてです。ね。自分が本当の者のごたる思い方をするならもう不可能な、それは不可能です。何故って本当なものじゃないから。自分自分の信心そのものはです。おかげは本当なものを、言わば現金で頂くような風に貰うんだけれども、神様に差し上げておるものはみんな偽者である。
 いいや真心で御座いますと言うでれども、その真心を一つ分析して見るがいい。真心のかけておる事、いや真心でない事に気が付くのである。だから神様の方は無限徳であり、不可能と言う事はないというそこ、そこの所を目指さなければいけん。そこで真の成就せん事はないという所謂真の追求である。真の信心の追求である。為には先ず自分自身の信心が、そのあのまりもではないですけれども、田村さんの説明の所では、本当な物と思うっておった所が、実際は偽者であったと言う事、偽者でも矢張り私の目を楽しませてくれる事においては変りはないけれども、有るのは生殖をしない生殖されようがない。
 次の物を生んで行く事が出来ない。私共がです事に有難い事は、本当なものから本当なものを追求して、一生言わば偽物で終わったに致しましてもです。その追求加減がです本当なものになりたい本当なものになりたいと、信者の中の信者と言われるような信者にならせて頂きたい。そういうお引き立てを頂きたいという願い。為にはです人が人偏なら私は行人偏と言うくらいな信心させてもろうて、ね、
 そのために信心の修行が成されて行くと、言うようなおかげを頂いて参りましたらです。その本気で本当なものを求めるその心に、神様が緩和まします。神様がそこん所を汲み取って下さる。そして愈々確実なって言うか、本当なって言うかおかげを身に付かせて下さる様なおかげを受けられるという風に思うのです。私はもう私自身あのまりもじゃないですけれども、言うならば皆さんが、親先生親先生と言うて下さるけれども、親先生の偽者だと自分で思わせてもらいます。
 皆さんも例えば総代さん方を始めです自分こそ名総代って。私が一辺高芝さんに何かの時に、もうあんたどんが名総代やろばってん、あんた方はこの迷総代じゃもんのと言うて私が言う。名は名は名手の名ではなくてから、迷いと言う字。ね、いわいる迷総代迷いし、迷い総代の自覚に立たせて頂いて、ね、それを本当なものに確立して行こうとする願いだけは本当なもの、と言う信心をしていかなければならんと思うですね。
   どうぞ。